2017年4月12日水曜日

思想に

   思想に

僕の頭蓋骨の中には
煤けた共同長屋が列んでゐる
そこには実にありとあらゆる思想が
隣りあひ向ひあつて棲んでゐる
やつらは各々孤独をまもつて
朝夕の挨拶すらロクに交さない
奴らは揃ひも揃つて働きのない怠け者で
その日その日の糧にも窮してゐる
うちつづく栄養不良に見る影もなく瘦せ衰えてゐる
こゝには弱肉強食も相互扶助もないんだ
ひとりを隔離しひとり存在してゐる
秋がきた
冬も近い
時々奴らは家を空にして
何処かへ出てゆく
冬眠の仕度にかゝるんだろう
が、獲物を仕入れて帰つてくる奴もあれば
そのまゝ永久に姿を晒してしまふのもある
空家はすぐに塞つてしまふのだ
入れ代りに変つた野郎がいづこからともなくやつてきて
一言の挨拶もなくその家の主人におさかりかへる
そして自分の周囲に
以前に倍する高い堅牢な城壁を築いてしまふ
あゝ
その一つ一つの巣に
これらの生気の無い蒼ざめた思想の一つ一つの形骸を眠らせて
僕の頭蓋骨も又冬に突き入る


「長屋」は、戦国時代、山城の麓に建てられた根小屋に始まるそうです。雑兵の休泊所で、一単位の間口九尺(2.7メートル)、奥行二間(3.6メートル)という最小の居住空間の連続です。地方武士が都会へ出たとき、家臣の泊まる宿舎もこの形式で、江戸時代、藩邸にたくさんみられました。

表門の左右から塀の内側にぐるりと建て、主屋を取り巻くので四方長屋です。往来に面するところは二階建てで、上下五室ほどあり中級以上の武士が住みました。他は中長屋といい、手狭で採光も悪く、士分以下の軽輩の住居だったそうです。

人口が密集した江戸時代には、庶民住宅にも長屋形式の住宅が発達しました。表通りのものが「表長屋」で、裏通りや路地にあるものが「裏長屋」。通常、長屋といえば裏長屋で、裏店とも呼びました。表通りの木戸を入ると、狭い路地を挟んで両側に長屋が建ちます。六軒長屋が多く、一軒の規模は、九尺に二間、または二間半でした。多くは二階建てで、上下二室からなり、台所は共同井戸の近く、戸口の土間にありました。

戦前も、都市住居としては長屋が一般的でした。各住戸内に階段がある2階建て長屋も増え、各戸にトイレも造られるようになりました。現在でも、東京・月島、旧炭坑地域などあるほか、兵庫県の加古川日本毛織社宅建築群にその典型が残されています。

この詩の当時、長屋の「思想家」たちはどんなふうに暮らしていたのか。萩原恭次郎に感じて、十三郎は次のように記しています。
「はじめて、千駄木にあった彼の下宿をたずねていったとき、二階に上って、障子の外から『ハギワラ君』と声をかけると、『ああちょっと』とあわてた様子で彼が出てきた。真昼間だったが、まだ床はしきっ放しで、掛布団のはしから、とっさに顔をかくしたらしい女の寝みだれ髪の毛が見えた。なんともてれくさい初対面の仕方だったが、そのとき、明け放された窓の向うに見えた六月の太陽にかがやく椎の木の若葉を、わたしはふしぎにいつまでもハッキリと想い出すことができる」(『奇妙な本棚』)

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