2017年5月4日木曜日

冬の夜の歌

冬の夜の歌 ――自分のことは忘れよ、各自の生活を励め――魯迅

夜更けて
公園を通り抜けた。
あの坂を登つていつた。
靄が一ぱいたちこめてゐた。
地を葡ふてどこかへ吸ひこまれてゆくやうに。
すずかけや、にせあかしやの並木もしづかに濡れてゐた。
生暖かい冬の靄の中に光の輪がぼうつと汗ばんで、それがとびとびにいくつもいくつも浮かんでゐた。
遠くに吼えるやうな汽笛がながれる。
日本の寥しい民衆公園もいまは夜だ。
暗い木立の中に 雀たちだけまだ起きてゐてバサッバサッと枝葉をゆする気配がハツキリきこえた。


「魯迅(ルー・シュン)」(1936-1881)=写真、wiki=は、中国の作家、思想家。本名は周樹人。浙江省紹興生まれ、4歳年下の弟に周作人がいた。中流から凋落した周家の長男として育ち、早くから生活の苦しみを味わいます。人情のはかなさを知り、世間の人々の真の姿を見る思いがしたそうです。

18歳のとき、南京の江南水師学堂(海軍養成学校)に入学り、3年後の1902年に日本へ留学します。明治末期の日本で欧州文芸の新鮮な息吹に触れ、日露戦争後の日本文壇の活況にも刺激されることになります。また、ドイツ語を学んで、世界の文学を広く読みあさりました。

1909年、帰国して間もなく辛亥革命が勃発し、清朝は滅びます。しかし魯迅は革命後の旧態依然たる現実に幻滅し、沈黙と寂莫の日々に耐えねばなりませんでした。この時期に中国の歴史と民族に対する思索と内省を深め、新文化運動のさなかで発表された『狂人日記』(1918)、『阿Q正伝』(1921~22)など、中国社会の病態を鋭くえぐる作品に実を結びます。

その後も厳しい言論統制のもとで果敢な文筆活動を続け、社会の暗黒面と権力者に挑む多くのエッセーや雑文を書きました。魯迅の文体は「匕首のように洗練され,寸鉄人を殺し、一刀血を見る」と評されますが、一方で、論敵をとことん追いつめ、寛容を拒む作風は、権威主義に堕する危うさを潜めているという指摘もあります。「彼らを怨恨させておこう、私はまた一人もゆるすまい」というのが「辞世」だったとか。

*「わたしいつか冬の真夜中にこの天王寺公園を通りぬけたことがある。そのときも靄が一ぱい立ちこめていて、その靄の中にぼおっと光の輪がとびとびにいくつもいくつも浮かんでいた。」「わたしは実際に、そのとき、この深夜の公園の中で、中国の大作家である魯迅が残した言葉を反芻し、ここで云われている各自の生活の生活とはいかなる意味かということを考えた。」(『奇妙な本棚』)
 その何年かのちのある夏の朝、小野は同じこの天王寺公園に、戦闘帽、国民服、ゲートル巻、リュックサック姿で立つことになる。徴用令がきたのだ。同じようないでたちの人々と訓練所に入り、それから造船所に行くことになる。
 最後のところにでてくる雀は小野の詩によくでてくる鳥だ。葦が風景でありものであり客体であるとすれば、雀は小野にとって血がかよったもの、心のようなものであり、主体であるといえる。『火呑む欅』の「群雀」とか『垂直旅行』の「雀」とかで小野の雀は見事な展開をみせている。《安》

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