2017年6月10日土曜日

不当に「物」が否定されたとき

   不当に「物」が否定されたとき

不当に
「物」が否定されたとき
私は「精神」に対して怒りを感じた。
物質は或るとき
さういふ精神どもに取囲まれた。
物は駆り出されて
あちこち逃げまどひ
或は天界にすつ飛んだ。
物は容れられず
永久に孤立してゐた。
物は内に深い寂寥をたたえ
異国の荒れた鉱山や
旧世代の都市の工場地帯から
はるかに
故国の方を見てゐた。
私はいま物の位置を信じることが出来る。
雑白な
脅迫がましい精神どもが立ち去つたあとから
私は物質をこゝに呼びかへしたい。
その酷烈な形象で
全地平を埋めつくしたい。


「心身問題」について、平凡社の『世界大百科事典』には「古来、霊と肉、魂と身体の問題として、宗教や日常の場で絶えず顔を出す問題であったが、また量子力学での観測問題や大脳生理学ではいまだに人を悩ましている。もちろん哲学ではそれぞれの哲学の性格をきめるほどの基本問題であったし、今でもそうである。この問題の大筋は、まず人間を心と体に分け、その上でこの心と体がどう絡みあっているのかを問うことである。ところがその絡みあいの仕方についての各種各様の考えのどれもが満足のゆくものではない」とありました。

*(この詩は)小野の「物」論=「精神」論としてしばしば取りあげられ論ぜられるが、ここでは大岡信の明確な発言を記しておこう。

「これはみごとな精神の賛歌である。ぼくは詭弁を弄しているのではない。小野氏は『私はいま物の位置を信じることができる』と書くことによって精神の位置から物に転落しないでいるおのが精神を、誇りをもって確認し、証言しているのだ。小野氏が『精神』に怒りを感じたのは、それがもはや精神でなくなっていたからにほかならぬ。物に激しく抵抗する精神だけが、物の位置をたしかめ、信じることができるのだ。たしかに、最も激しく人間精神の領域を変貌させた詩人たちは、例外なしに五官においては極度のマテリアリストだった。彼らはそのようにして、実は精神の位置を明るく浮き彫りし、その領域を拡大したのである」(『現代詩人論』角川書店)

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