2017年6月26日月曜日

冬の海から

   冬の海から

すでに
砲塔も
煙突もマストも
きりとられている。
しかしまだ三万九千噸の大戦艦の
赤さびた船体は
おびただしいかきやふじつぼに蔽われて水面下にある。
甲板には木製の防水壁が建てられ
舷側や艦底の浸水個所はげんじゆうに防壁でかこまれている。
あとは揚水ポンプを動かし
浮揚タンクを結びつける仕事がまつてるだけである。
準備完了!
波がしら白く立つ冬の海から
またもや巨大なる物のかたちが
浮びあがつてくる。


きょうから第7詩集『火呑む欅』に入ります。この詩集は、昭和27年11月、三一書房から発行されました。

「三万九千噸の大戦艦」というのは、おそらく戦艦「陸奥(むつ)」=写真、wiki=のことと思われます。「陸奥」は1921(大正10)年10月に完成し、戦前の学校の教科書に描かれるなど日本海軍の象徴として国民に愛されました。

大戦中は、戦地に赴かず温存されていましたが、1943年(昭和18)年6月8日、広島湾沖柱島泊地で原因不明の爆発事故を起こし、沈没してしまいます。乗員1474人のうち助かったのは353人だけ。死者のほとんどは溺死でなく爆死でした。

爆沈直後から海軍は再戦力化に向けて「陸奥」引き上げを検討していました。しかし調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されて諦めました。占領下の監視のため終戦直後には浮揚作業はできず、1948(昭和23)年になってから、西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始します。

しかしこのとき、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こって作業が中断されてしまいます。「はぎとり事件」とはどいういうものだったのか。それを知る手がかりとして、少し長くなりますが、1952(昭和27)年6月30日の衆議院本会議における当時の内藤隆・行政監察特別委員長の発言を引用しておくことにします。
     
 《国有財産管理処分に関する事件の第三に、山口県岩国市の沖になぞの爆沈を遂げた軍艦陸奥のはぎとり事件と称せられるものであります。

これは、西日本海事工業株式会社が、山口県知事の許可を得て、搭載物資たる燃料、食料品、繊維品、非鉄金属類の引揚げを企てたことに端を発するものでありますが、当時陸奥は、連合軍からわが国に返還されていなかつたので、極東海軍司令部から抗議が来たために、一時この計画は中止されたのであります。

その後、建設省が主体となり、あらためて搭載物件の引揚げ及び処分をその責任において実施することの許可を得たので、建設省にその実施監督を山口県知事に委任し、引揚げた物件は一般の返還軍需物資、すなわち特殊物件の処分方法により、政府の指示に従つて売却するということになつたのであります。

ここにおいて、山口県知事は、あらためて前述西日本海事工業と契約を結び、引揚げ作業が再開されたのでありますが、この作業継続中、朝鮮事変が勃発して、金属類の価格が暴騰し、また陸奥の艦体有体が連合軍からわが国に返還されるに至つたのであります。

今までは引揚げ許可を受けた物件だけが特殊物件として返還されたのでありますが、今度は艦体そのものも返還されたのでありますから、建設省の所管においての引揚げ物件の範囲、すなわち搭載物件は何ぞやということが問題となつて来たのであります。

大蔵省、建設省、山口県当局の見解は、艦と一体をなす機械類、裝備品は搭載物件ではないとしているのでありますが、会社側はこれをきわめて広義に解し、艦体をどんどん破壞して、重要機械類、裝備品を引揚げ、またこれを無断で処分してしまつたのであります。

しかるにかかわらず、山口県の監督の任に当つている係員は、県が搭載物件でないとしている物件の引揚げを黙認記し、また無條件に契約量を超過する引揚げを認め、火薬に対しても申請通りの数量の使用を許可しているのであります。

これは、県と会社とが共謀して、特殊物件の名のもとに国有財産を窃取横領したのではないかとの疑いも起りますので、本委員会はこの点を追究しましたところ、結局搭載物件に関する見解の相違と、県がこの仕事を一係長にまかせ切りであり、この係長がまつたく傀儡的存在となつて会社側に翻弄されていたことが判明したのであります。

なおこれに加うるに、建設省が三回目の期間延長に際し、何ら実情を調査しなかつたことが、不正行為にさらに拍車をかけた結果となつたことも否定しがたく、中国財務局もまたその所管となりた後、單に一片の書類による警告を発しただけで、全然現地調査をしていないというように、行政官公署の事務懈怠が禍因をなしていることも否定できないのであります。

山口地方検察庁は、本年四月十五日、西日本海事工業社長武岡賢に対し、業務上の横領罪で起訴しておりますが、大蔵省、建設省、山口県当局は、損害の共同調査を遂げ、西日本海事工業に対し求償すべき責任があるというのが、本委員会の結論の一つであります。

なお、本件調査中、陸奥艦内には約一千柱と推定される多数の英霊と殉職者の尊き遺体が眠つていることが判明いたしましたので、関係官庁を証人として喚問し、英霊に対する事後の行政措置につき、その善処方を要求したのであります。遺家族多数より、委員会に対し、激励と感謝のり書状が参つております》

「陸奥」の乗組員の遺族たちは、それでも諦めることはなく、1955(昭和30)年5月には2度目の陸奥遺体引揚請願書を国会に提出。翌1956年には、浮田信家・元海軍中佐が遺族会代表宅を訪れ、「多くの軍艦が沈んでいるので陸奥だけを引き揚げるのは出来ない」旨を知らせますが、引き揚げ運動は粘り強く継続されます。

そして1970(昭和45)年、ようやく深田サルベージ株式会社の主導でサルベージが再開され、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収。1971(昭和46)年には艦尾の浮揚にも成功し、第4砲塔も引き揚げられて中から遺骨数体が回収されています。

2007年には、第6管区海上保安本部の測量船の探測機が「陸奥」の船影を捉えています。このころまでに7割程度が浮揚されたましたが、いまも艦の前部など一部はは海底に残ったままです。

ついでですが、「陸奥」の鋼材が、思わぬところで重宝がられているエピソードがあります。現代の製鉄では、溶鉱炉内の耐火煉瓦にコバルト60という放射性物質を含ませて、そこから出るガンマ線によって破損箇所を調べるシステムを取っています。

そのため、放射性物質の一部が鉄に混入してしまいます。しかし戦前に造られた「陸奥」の鉄材には、そうした放射性物質は含まれていんません。このため引き揚げられた「陸奥鉄」は、精密な放射線測定機の遮蔽材などに最適というわけです。

この詩を読んで、私は、次にあげる長谷川龍生の「理髪店にて」が頭に浮かびました。龍生は、十三郎の弟子筋にあたります。

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

新宿のある理髪店で
正面に篏った鏡の中の客が
そんな話をして剃首を後に折った。
なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
滑っている理髪師の骨のある手は
いままさに彼の瞼の下に
斜めにかかった。

*この詩についての村野四郎の懇切な鑑賞があるのでそれを引用しよう。
「戦艦の引き揚げ現場が、冷静で、即物的な『眼』によって克明に描きだされている。だが、こうして描き出された事物は単に視覚的な『光景』として在るに止っていない。それらは何ごとかをものがたっている。つまり、抒情の曇りを拒否した、これらの形象のイメージ(心象)は、その背後に明確な一つの論理のイメージを密着させている。形象のイメージが尖鋭だから、これにともなう論理のイメージも、いよいよその尖鋭度を増している。前半の部分、そこに描きだされているのは、水面下にある無残な大戦艦の細密な光景だが、その光景は直ちに、巨大なもの、狂暴なものの惨憺たる末路の心象を呼びおこし、つづいて、戦争というものの醜怪で悲惨な心象を読者の心によびおこす。後半の部分は、そうした怪物の巨大な形が引き揚げられて、徐々に水面へ姿を現わしてくる経過が描かれている。その叙述は極めて冷静な報告的記述だが、それだけにその情景は、いよいよ冷い切迫感を加えている。そしてこの切迫した光景のイメージは『またもや』という言葉をキッカケにして、突如として戦争復活の戦慄と恐怖のイメージを呼びおこすのである。……作者は、この作品において、このように音楽を拒否した冷静な詩の批評によって、逆に古い秩序のよみがえりを、きびしく批判しているのである。」(『鑑賞現代詩Ⅲ』筑摩書房)
 一度「またもや」という一句を抜いて読んでみてほしい。きわめて冷静に即物的に書きこまれたものだが「またもや」一句によって一気に動きだす。見事というほかない。

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