2017年6月27日火曜日

こだまのニンフ

   こだまのニンフ

高い木々は
霧氷をあびたように白い。
そして背後の空は真黒だ。
木賊や羊歯の葉つぱのぎざぎざ。
らつぱ百合の大花冠
それらの花や葉つぱの影のいりみだれた中から
鳥頭人身の異形のものが首を出した。
それは絶対に人の眼にふれない
深山のこだまだ。

こだまは飛びおきたのだ。
風の音ではない。潮騒ともちがう。
あきらかにそれとわかる一つの楽の音が
そのときどこからともなくしずかにながれてきた。
なかほどに二度はいるあのぞつとする大太鼓。
こだまは己の耳をうたがつたがまぎれもないのだ。
まぎれもないそれは「君が代」の奏楽なのだ。

日本から相距る五百万哩くらいはあるか。
玄武岩の屏風でかこまれた
山の奥の奥の
木賊や羊歯のしげみの下の
その地下の
鍾乳洞の底にいて
人間どもから完全に姿を消しているこだまにそれが達するのだ。

鳥頭人身と化しても
きこえるのだ。

         「こだまのニンフ」――マックス・エルンストの絵


ここでいう「こだまのニンフ」というのは、マックス・エルンスト(Max Ernst)の1936年の作品「The Nymph Echo」=写真=をいっているのでしょう。

「マックス・エルンスト」(1891-1976)は、ダダ、シュールレアリスムの代表的な画家。ドイツのブリュールに生まれ,ボン大学で哲学と美術史を学んでいます。1914年にケルンで画家のアルプ(1887-1966)と出会い、1919年、互いに関係のない写真や印刷物を貼りあわせて意外な視像を現出させる〈コラージュ〉を試み、ケルンでダダ運動をおこします。翌年、ブルトンらと交友し、やがてシュルレアリスムに加わることになります。1922年パリへ移住し、詩人エリュアールとの共編《不死者の不幸》を出版。1925年には、目の粗い物体の表面に紙をあて鉛筆などでこすって視像をえる〈フロッタージュ(摩擦画)〉の技法を発見しました。

「木賊」(トクサ)は、山中の湿地に自生する常緑のシダ植物。茎は直立していて、中空で節があります。茎は触るとザラついた感じがして、引っ張ると節で抜けます。節のところにギザギザのはかま状のものがあって茎がソケットのように収まっていますが、このはかま状のぎざぎざが葉に当たります。

「鳥頭人身」というと、インド神話のガルダを前身とする、仏教の守護神、迦楼羅天(かるらてん)を思い出します。インド神話の神鳥ガルダが仏教に取り込まれ、仏法守護の神となりました。口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされる。ふつう鳥頭人身の二臂と四臂があり、龍や蛇を踏みつけている姿の像容もあります。

*この詩は第一詩集『半分開いた窓』の「野の楽隊」を想い出させる。「野の楽隊」できこえるのは「ケームリモミエズクモモナク」という楽隊の音楽であり、きいている「ぼく」はいくらもがいてもついついつりこまれて歩調が合ってしまうのだが、この「こだまのニンフ」では「君が代」の奏楽が日本をへだてること五百万哩の山中のこだまのニンフに達するというのだ。人間はありのままの現実や、ありのままの自然の進行に極度に退屈すると、「オルフェ」の死後の世界のガラス売りの男とか、「こだまのニンフ」という鳥頭人身の異形のものとか、そのようなものを見ると小野は書いている。ただおそろしく退屈することだけが必要だと書いている(『奇妙な本棚』)。これらの言葉のなかの「退屈」を「嫌悪」と置きかえてみると、この作品を支えているものが語られていることがわかる。「冬の海から」で「またもや」という一語で古い秩序のよみがえりを突いた鮮やかな手つきがこの作品においてみられないのはマックス・エルンストへのこだわりが逆目に出たのだろうか。《安》

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