2017年6月6日火曜日

諸機械たち

   諸機械たち

遠い寒い巻雲の
まだその上の遠いはるかな天へ
冬の葦たちは消えていつた。
ふと見ると
なんとこれは夥しい中古機械たち。


「機械」とは、機械の定義は時代とともに変遷しています。 1960年代ころまでは、使用中に受ける外力、温度、その他に耐えうる物体の結合・組合せから成り、それらのうちの特定部分が一定の相対運動を行なって、外部から与えられたエネルギーを所要の仕事に変換するものとされてきました。これは、この時代の作品です。

しかし、この定義では最近のコンピュータ、ティーチングマシン、人工臓器など、新しい機械を含めることができなくなっているので最近は、機械を広く解釈して「人間に有用な目的を達成するために、物体を組合せてつくり、これらの各部に所定の機能を与え、全体の機能を実現させたもの」とされています。

*精神主義にかかわる詩人の責任に言及した小野の文章を次に挙げておく。
「暗黙の裡に過大な精神主義を擁し、それをまきちらしていたことについては詩人も亦責任を負わねばならない。歴史家や宗教家や政治家や教育の衝にあたっている者が、頭ごなしに『物質』を否定してかかることは勝手であるが、詩人が野次馬のようにそれに雷同している格好は不愉快である。詩が若し『物質』に対立する意味での『精神』の如きものであるならば、詩人であることは実に易々たることだ。天上天下詩人にゐ非ざる者無しだ。一切の抒情詩的偶然がその生長につれて悉く精神主義の道をとっていることは頽廃の徴候である」(『詩論』148)
 これはなにも戦争中の異常な精神主義についてのみ云えることではあるまい。《安》

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