2017年6月7日水曜日

深夜の出迎へ

   深夜の出迎へ

長旅に疲れて
いまは物を云ふ気力もない。
大きな荷物を背負つたまゝ
吊革によりかかつてうとうととしてゐるものもゐる。
日本の夜は真暗で何も見えない。
寂寞として
あたりは海の気配がした。


組詩「惜別」の一篇です。「惜別」には「朝鮮の若い友だちへ」という一行が添えられています。

十三郎は、1943(昭和18)年夏、徴用されて、藤永田造船所へ入ります。労務部に配属されて徴用工指導員として敗戦まで勤務しています。そこには、朝鮮からの6000人の若者を含めて一時は1万数千人もの徴用工がいました。

「藤永田造船所」は、かつて大阪市にあった、日本最古といわれた造船所です。日本海軍の艦艇や鉄道車両を製造していました。

1689(元禄2)年3月、大坂堂島船大工町に船小屋「兵庫屋」として創業。開国すると、西洋式船舶である君沢型スクーナー船、木造外輪汽船の建造に取り組み、近代的造船所に脱皮しました。

戦前は、日本海軍との関係が強く、そのことで昭和金融恐慌などの経営危機を乗り越えた。1919年、海軍の指定工場となり、1921年5月には駆逐艦「藤」を竣工。以後、「皐月」「文月」「叢雲」「綾波」「曙」「黒潮」=写真、wiki=など海軍艦艇56隻を建造しています。

1929年には、創業家の10代当主が社長を辞任して、海軍中将が社長に。1940年には海軍管理工場、1944年には軍需会社に指定されています。1967年、企業競争力の強化のため同じ銀行融資系列の三井造船に吸収合併され、278年の歴史に幕を閉じました。

*「私の仕事は、労務課の指導員という名で、主として徴用工たちの寮生活の面倒を見る仕事であった。私のまわりには、私と同じく世帯持の日本の徴用工たちの他に、来た当初は8000人になんなんとする朝鮮本国から徴用されてきた平均年齢21歳の若い朝鮮人がいた。寮生活を通じて、私はかれらの人間性にふかくふれるところがあり、戦争が終ってかれらが帰国するまで一年半、同じ釜の飯を食って苦労を共にしたことをいまでもなつかしく想いだす」(小野「風景と人間と」から)。

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